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旧本堂 [朝のおつとめ等]

旧本堂.jpg

妙見山晴雲寺建立の起因
角田三朗(角田仁 祖父)小黒坂村名主在職中、大飢饉到来し 村内は疲弊困憊(ひへいこんぱい) 全く想像に絶するの時、善悪是非の如何を問わず 代官の命令には絶対服従。服従 
せざれば遠島 若しくは打首の処刑の治世。たとえ天災地変なればとて更に容赦なし。村内殆ど無収穫、食事すらこと欠き 水を呑みて露命を継がむとも 一村の長たる名主に負わす責め、また非情苛酷なり。

故に角田三朗、私財一切を犠牲に供し 年貢の儀滞りなく相済したり。ために長期 角田
家家運傾き困窮其の極に達し、日頃家名再興に悩みつづけ 死の寸前までに至りしが 感ずる有り 永きに渉り信仰せる 日蓮宗総本山身延山七面堂に籠ること2年有余、一心に信仰し来たり。この間 身延山74世吉川日鑑猊下遇せらる。

角田三朗 日頃胸中に描き居りたる計画、即ち一寺建立の儀、熱心に言上御協力相求むたるに、法主猊下言下に之れを御受け被し下され かつて加えて一寺建立の暁開山として法主猊下御自ら御名を下さることも確約、仏像一式を御自ら授与せられたり。

角田三朗直ちに下山、帰宅致し 義兄宇佐美太兵衛に経過、計画を相談、ついで縁者宇佐美源兵衛 角田代十郎 角田捨吉と相計り着々準備にとりかかり率先檀家信徒を多数勧誘、又 寺財即ち土地其の他必要のもの一切を整え、明治14年3月26日待望の新寺建立てら号公称を出願再三却下せられたるも、遂に念願相叶い 明治15年11月11日許可をを得、明治17年10月その竣工をみたり。(古文書、角田三朗覚書等による)

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